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昭和30年代…1955〜1964年ころは一番よかったね

1 :50代前半:04/08/30 17:07 ID:MRd8+HwJ
前良スレが1000になりますので
新規後継スレを立ててみました
よろしくお願いいたします
前スレ
http://bubble2.2ch.net/test/read.cgi/middle50/1078072427


2 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/08/30 17:18 ID:WtZW6kZ/
今日本では大変なことが起こっています。
自民党以外の全ての政党(与党尾公明党含む)が外国人参政権運動を進めています。
最悪の場合、近いうちに成立してしまうでしょう。ではなぜ外国人参政権がいけないのでしょうか?
外国人といいますが、対象は 『南北朝鮮人 だ け 』です。
在日アメリカ人やカナダ人は含まれません。
もしこの政策が実現したら、在日 北 朝鮮人の知事が誕生する可能性があります。
日本中の60万人の在日朝鮮人が、一つの県に集中したらどうなりますか?
言うまでもありません。
そうなったら、『拉致被害者の調査の中止』『在日朝鮮人の治外法権』『北朝鮮への核支援』
を 【 合 法 的 】 に行なうことが可能になるのです。
日本国内に 『在日朝鮮人特別区画』 が誕生するのです。
それは東京かもしれないし、大阪かもしれません。これは断固阻止しなければならない案件です。
皆さんの強力をお願いします。
【断固】在日参政権を阻止するオフ【阻止】
http://off3.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1093264107/l50


3 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/08/30 21:50 ID:PVdjq6BL
>>1さんへ

あなたはいつも2chのことばかり考えていて、
一生懸命このスレを考えたのでしょう。
このスレがたった瞬間に書き込みが殺到して、「キター」とか
「1は神」とか言われるのを夢見ていたのでしょう。
自分でギャハハと大笑いして俺って天才とか思いながら書き込み
ボタンを押したのでしょう。

でも、このスレははっきり言って全然おもしろくありません。
クズです。失格です。0点です。株で言えば上場即整理ポスト行きです。
わずかな知能をふりしぼって一生懸命考えた努力は評価しますが、
無駄な努力に終わったようです。

あなたを憐れんでこのスレに書き込みをしてくれたわずかな人に
深く深く感謝してください。

最後に、あまりにもかわいそうな1に深々と合掌。


4 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/02 21:18 ID:co54Y/Wn
>>3
んなことはない!
昭和30年代に思いを馳せることは現代の殺伐とした時代を考える上でも
大変意義があることと考えます。

前スレでも誰かが仰っていましたが、昭和30年代はまさに「心の黄金時代」
だったのです。

とまあ、難しく考えなくても懐かしいあの時代を共有できた心の友たちと
話し合いたいな。

5 :一杯:04/09/02 21:21 ID:Zoqo9RH8

懐かしき30年代・・・・セピア色ですな

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/03 00:53 ID:IEYw62R+
>>1殿
スレ立てご苦労様でした。

あの当時、21世紀といったら、夢のような世界が待っているものと
思いこんでいたものだが・・・。

厨房だったということか・・・。


7 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/03 15:09 ID:Zm6T1JC0
前スレが埋まったようなので、とりあえず上げときますよ。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/04 18:19 ID:d0IqwuMQ
>>4
それを言ったのは漏れかもしれません。汲み取り式便所でエアコンもない当時に戻りたい
とは思いませんが、心は豊かだったです。終戦直後は食うのに精一杯。

栃若の大相撲、力道山のプロレス、長島等の野球、等、丁度普及しつつあったTVに誰もが
熱中したし、TVも電話も完全に普及していないからこそ、街頭TVや電器屋や裕福な家庭に
押しかけてTVを見せてもらったり、呼び出し電話で呼んだり、呼ばれたり、..。

これが昭和30年代後半になると、各家庭にTVも電話も普及し、ちゃぶ台からテーブルへと
生活様式も急に洋風化し出す。服装だって、昭和30年代前半はお父さんは外では背広だが、
家に帰ると和服に着替える。お母さんは家では洋服が主だがよそ行きには着物でおめかし
ってのが普通だった。我々少年も普段は下駄履き。夜も寝巻きを着て寝ていた。
昭和30年代の後半って、池田内閣の所得倍増計画で急速に経済成長する時期とも重なります。
経済成長の代償に失ってしまったものも大きいように思えて仕方ありません。

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/05 00:14 ID:Jhj6dlEe
昭和30年代前半はまだラジオの時代だったなあ。
栃若の全勝対決もラジオだったし、うちの母なんかラジオドラマの時間に
なるとラジオの傍に椅子を持ってきて聞いていたなあ。

割烹着姿が普通だったし、まだ盥で洗濯していたよ。
隣近所がまるで家族か親戚のようだった。
悪戯すれば他所のおやじに容赦なく怒鳴られたし、またそれが普通だった。

小学生の時、休むと必ず誰かが給食をわら半紙に包んで持ってきてくれたな。
鰯のフライとか、メンチカツとか、キャベツまで添えられて、それがまた乾いて
少しカサカサになってはいたが必ず持ってきてくれたっけ。

確かに今より物を大事にしていた時代ではあったな。


10 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/05 00:33 ID:T+uBr6CH
醤油、味噌とかは、はかり売りだったな
八百屋、肉屋は新聞紙が包装紙だったな
環境にやさしかったな

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/05 02:41 ID:r6OlcTo9
おじいさんちたが子供だった頃ってみんな着物着てたの?

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/05 03:54 ID:9GJ/lsuq
>>11
期待に沿えなくてごめんね。今50代のわれわれの親世代(70代後半から
80代)でも着物を着てたかどうかってところだな。
それと50代っておじいさんかい?明石家さんまや小堺一機や所ジョージ
なんかも来年50になるけどおじいさんに見えるかい?

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/05 09:32 ID:jv1d9g+0
でも、下駄で小学校に行ってた。冬は足袋履いて。
さすがに着物では行かなかったが。
19年生まれ。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/05 11:31 ID:gHC7nk2T
プール男子は、ふんどし

22年生まれ

15 :8:04/09/05 16:42 ID:z+mvZj8n
>>9
うん、大相撲は先ずラジオで知った。TVで見るのは同級生の電器屋か金持ちの家。
新橋駅の今のSL広場には街頭テレビがあり、相撲やってると皆見ていた。当時は
尺貫法で、当時再重量の大起(おおだち)は50貫弱。6尺超えたら大男。最
長身の大内山が6尺6寸位じゃなかったかな?
大下弘がクラウン貰った昭和32年の日本シリーズや翌年稲尾の4連投4連勝も
ラジオだった。中西太の400フィートホームランてのも想像の世界。

>>10
そう。これも尺貫法で、お袋なんかの買い物に着いて行くと「豚肉100匁下さい」
なんて言って買ってた。竹の皮に包んでくれる。八百屋も魚屋も新聞紙。買い物籠
自持参は当たり前。竹の皮は捨てないで置いておく。これにお握りを包んで遠足の
時に持参する。

・屑屋:新聞紙や金物類等を回収する。
・バタ屋:家庭のゴミ箱を漁り、金目のものを回収する。
・鋳掛屋:「鍋・釜・薬缶・蝙蝠傘〜」を修理する。穴が開いたり、骨が折れても
    捨てない。家電品も勿論修理。空き缶空き箱類も捨てずに物入れに。和紙
    はコヨリにして書類を綴じたりする。

という職業があり、環境にはメチャ優しかった。

16 :8:04/09/05 17:04 ID:z+mvZj8n
何度もすいません。漏れは昭和24年生まれなんで、31年に小学校入学。1年、2年の
時はTVなんて持っているのは>>15で述べたように金持ちと電器屋だけだった。
3年、つまり昭和33年になると、教室の後ろでTVを持っている家庭の子達が面白そうに
TVで見た話をしている。少数派ながら、そっちの方が完全に先端でカッコよかった。
1年、2年の時は少数派過ぎて会話が成立しなかったのに..。例の金田−長島対決なんて
のも彼等が非常にリアルに語ってるのにこちらは想像するしかない。栃若対決も、制限
時間一杯前の観客の興奮をラジオで聞いて想像する他ない。
家がTVを買ったのが昭和34年春。栃若全盛、力道山全盛、長島2年目、王新人と丁度いい
タイミングだったと思う。家が買うと、近所の人や同級生が見に来た。翌昭和35年頃は
TVのない家というのは完全に少数派になってしまったし、TVのない家の子はクラスの中
で取り残されてしまった。だから多少貧しい家庭でも無理をしてTVを買ってた。

生活の洋風化もこの頃から急速に進んでいったように思う。バタ屋という職業もこの頃
消滅した。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/05 18:00 ID:rNrgtYN0
30年代に入った頃、幼稚園児だったけれど、
遠足の記念撮影を見ると
和服の母親が半分ぐらいいた。東京ですが。
明治生まれの祖母の世代はこの頃、普通に和服を着ていたヨ。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/05 18:19 ID:jf/9xiE0
http://tv6.2ch.net/test/read.cgi/ana/1094287481/53
おい、お前ら!!
IDにSexOK出てんぞ!!!


53 :名無しがお伝えします :04/09/05 12:51 ID:SexOKkEI
好きかどうかもわからん。やりたかっただけかも?

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/05 21:22 ID:f0DefbHa
si;@pp0i8ujoloi9o0okiijuhygo;@]
:;plpkij

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/05 21:42 ID:gHC7nk2T
俺んちは昭和34年に水道ひねるとお湯が出たよ!

昭和30年ごろ外人の家行ったら水道の蛇口から
お湯が出てビックリしてオヤジに言ったら湯沸器の事
知っていて教えてくれた。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/05 22:28 ID:Dqj5g7Zh
家に風呂が無いのが普通だったな。
3,4年頃までは銭湯の女湯に入ってた。
銭湯では同級生の女の子と裸の付き合いをしてた。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/06 13:39 ID:927XynBR
>>17
家のお婆ちゃんは明治19年生まれ。あの年代のお婆ちゃんは和服しか着なかったし、髪も
パーマなんてかけなかった。今、どんなに腰の曲がったお婆ちゃんを見てもパーマをかけて
いるんで時代の流れを感じる。
一番上の伯母は大正元年か2年生まれ、死んだ母は大正5年生まれ。伯母は普段着も着物だが、
母は普段着は洋服だった。よそ行き:昭和30年代前半は着物だったけど昭和30年代後半は
法事や結婚式以外は洋服になった。伯母や母の世代からチョイ上からモボ・モガの時代。
母も伯母も髪はパーマだった。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/06 20:28 ID:XSqWRBLm
>>21
25年生まれだが、俺には銭湯の経験というか記憶がないんだね。
物心付いた時にはうちに風呂があった。
勿論、薪で焚く木の風呂、それも台所の横にあって、外から丸見えだった。
思春期の頃、羽目板の節穴から隣のお姉さんが湯浴みをしているのを
ドキドキしながら覗いたものだった。



24 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/06 20:48 ID:cnnBRUd6
>>23
地方ではウチ風呂は普通だったのだろうが都内では
ウチ風呂のある家庭は少数だった。

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/06 22:15 ID:gFdR/tPF
地方であるわが家の内風呂は、五右衛門風呂で柴を炊いて
沸かしていた。柴を焼くあの匂いが懐かしい。

26 :22:04/09/07 09:42 ID:VhZcaEx2
>>24
そうだ。漏れは東京で、元々内風呂があったみたいだけど、風呂場を潰して親父の書斎に
していたんで銭湯に行っていた。

あの頃、銭湯には地方から中卒で上京した「女中」さんが何人も居て、子供の着替えなんか
手伝ってくれた。今時、「女中」だの「小僧」なんて言葉も禁句だし、存在そのものもなくなって
しまった。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/07 18:32 ID:AGaq39qF
三助なんてのもまだ居たな。
女湯で女性に頼まれるとマッサージをする男。
(しかも脱衣所ではなく浴場で全裸の女性をマッサージする)
今思うと不思議な仕事だよな>三助。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/08 08:41 ID:ddqFparR
>>27
一昨日TVでやってたけど、三助って今東京で1人だけだって。
中学生の頃色気付いてくると、「三助」って職業が、卑猥なような、羨ましいような
特殊な響きがあったね。

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/08 12:01 ID:1abOJEXt
マムコは見えそうで見えないんだよね。

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/08 23:02 ID:kOYPnEsu
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 シャクシャク   シャクシャク
  ∧∧    ∧∧
  ミ ・д・ミ ,,,ミ・д・ ミ 
  /つ-o,;'"'゙';,,o-⊂ヽ
〜O つヽ、ノ⊂  O〜
       ┴



31 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/14 06:31:31 ID:3kNk5TcO
ageとこ。

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/14 23:10:57 ID:YJCOuh+/
小学校の給食にはよく鯨の肉が出たものだった。
今では考えられないがね。
俺はこれが大嫌いだった。それと脱脂粉乳。
どちらも匂いに癖があって、それでも我慢しながら食べたものだ。
鯨はともかく、今考えると粗食だったなあ。

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/15 08:10:34 ID:x29j10Ux
そういえば、カツと言えば鯨カツだった。
あれはなかなかうまかった。
もういちど食べてみたい。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/15 09:11:41 ID:urXfAErG
>>32,33
うん。鯨なんて旨いもんじゃないよ。「はりはり鍋」なんかは他の肉じゃダメで鯨じゃ
ないと旨くないが..。漏れは東京だが親父は関西で「晒し鯨」や「コロ」、「サエズリ」
なんかに執心だった。東京では「コロ」、「サエズリ」って殆ど手に入らなかったけど。

漏れ等の子供の頃は、鯨油マーガリン、鯨ベーコン、鯨ステーキ、全て安価な代用品に
過ぎなかった。最近鯨ベーコンがトンでもない高い値段で売られているのを見て変な
感じがした。あんなもん、有難がって食うもんじゃない。

先日渋谷の「くじら屋」ってとこでミンク鯨の竜田揚げ食ったけど旨くなかった。ネット
でも評判悪いし、「鯨ってこんなもんじゃない!」ってコメントする香具師も居るが、
鯨なんて所詮「あんなもの」でしょ?

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/19 21:00:49 ID:DqY7evzg
昭和30年代と言えばまだ映画が庶民の娯楽の定番だった頃でよく
親に連れて行ってもらった。

映画館に入るといつも満員で最初から座れたことはまずなかった。
だからか中途で入って立ち見しながら観るのが普通で、映画が終わりに
近づくとみんな帰りそうな客を物色し、時には席を立ちそうな客に
予約を取るような風景もそちこちで見られたものだ。
それでも家族全員がそろって座れることは余りなく、席がばらばらで
観ることも珍しいことではなかった。

幕あいには物売り(名称は忘れた)がアイスやら落花生、スルメみたいな
ものを売っていて遠くから声を掛けて買ったものだ。
煙草の煙漂う中、活気と熱気に満ちていた当時の映画館風景の一齣。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/20 09:19:15 ID:vMMoUbjR
映画館ね、懐かしい思い出が一杯だ。
手軽な随一の娯楽だったし、眼で観る貴重な情報源だった。
高校3年のころには学校さぼってまで観に行ったなあ。
紅孔雀、アチャコとエンタツ、浪速の恋の物語、足長おじさん、
蟻の街のマリア、米、姫百合の塔、母もの、見上げてごらん夜の星をetc
思い出しても胸が切なくなる。


37 :>>1 なつかしいです。:04/09/20 09:59:09 ID:o3b/BpNe
人が生きて行くためには、各自の努力が必要・・・・と
自覚し、希望アル未来を見つめて突き進んで行った時代・・・

具合の悪い事はみんな政府のせい、他の人のせい、と
自分の怠慢を棚に上げて愚痴るだけの人の多くなった
現在を嘆きます。

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/20 18:08:40 ID:pq1E2GNY
>>35,36
子供の頃親父に連れられて映画館によく行った。煙草の煙だけじゃなく、兎に角空気が悪くて
映画館に行くと頭がガンガン痛かった。
先日六本木ヒルズの「バージンシネマ」というところに「DeepBlue」という映画を見に行った
んだが、椅子は座り易いし空気は奇麗だし隔世の感があるね。

昔は殆ど白黒、しかも35mmサイズだから今とはサイズが違う。昔のフィルムは「雨」が降って
たね。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/22 22:00:01 ID:4tcWVElw
>>34
鯨談義はおもしろいな。 あなたは随分詳しいですね。
でも子供の頃にそこまで、客観的じゃなかったでしょ。

ボクは鯨好きだったな。 牛豚より好きだった。 脂身がなかったからね。
ただ時に筋が太くて困ったことも懐かしい。

鯨屋の焼肉はうまかったですよ。
今は手に入らないから、却って美味に想像してしまい勝ちなのかもね。

病気になるとバター、バナナなどが食べられたので、ちょっと熱があっても
具合悪そうに病人のふりしたもんです。 ハハ

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/23 00:55:04 ID:lt7V8adw
>>1
1955年〜1964年は余りよくなかった。
その頃から受験戦争が始まったからだ。

41 :34:04/09/23 16:08:59 ID:abqrKJst
>>39
「子供の頃にそこまで、客観的じゃなかったでしょ」:無論そうですよ。

実は子供の頃極端な偏食で肉も魚も野菜も米もダメだった。玉子とじゃが芋、新生姜、豆腐
位しか食べられなかったんです。小学校に上がってから給食で無理矢理食べさせられて多少
偏食が治ったんですが、鯨は肉もマーガリンもベーコンもダメだったですね。

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/23 18:52:08 ID:zR0z3egA
私も偏食だった。食べられるものは、梅干し、きなこ、でんぶ、玉子、魚の煮汁、
味噌和えの味噌、くじらカツのころも、おみおつけ
34さんよりマシだね。

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/23 21:17:22 ID:eYZrbUJo
昭和30年代は僕にとっては小学校、中学校の時代だった。
その当時の母はPTAの副会長をやったり、バイタリティー旺盛、毎日が
元気一杯おかあさんだった。
その母が今では痴呆症で日々廃人になっていく。
時々、僕の顔を忘れて不思議そうな表情をする。
時間とは残酷なものですね。

44 :名無しさん@お腹いっぱい。 :04/09/23 21:46:04 ID:9K1CZ4SM
<<43
時々ならば、まだ良いですよ。
こちらはズ−ッと分からない状態。
ホントに時間は残酷です。
時は容赦なく進んで行くという思いです。

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/23 22:12:52 ID:ZyUJbnbl
>>43~4
私の母も今89歳で、アルツのため老健でご厄介になっています。

時々行っては、昔のアルバムを見せ記憶を引き出すよう努めていますが、
だんだん自分の子供も判らなくなる一方で、自分の母親の顔だけは間違いません。

60年以上前に亡くなったのに、兄弟も8人もいて接触だって少なかった筈なのに、
なぜかいつもその写真見て「私のお母さん」と判ります。

母という存在は、男女問わずに何か特別なもののようですね。

46 :pipi:04/09/24 02:43:02 ID:n5ATyR/y
中年は、競馬で、楽しむ! 
競馬で儲ける!
http://page11.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n7419330

47 :34,41:04/09/24 16:23:47 ID:tmHGo050
>>42
いや〜あ、奇縁!実は

・きなこ、でんぶ

も結構好きでした。味噌汁はダメ。味噌汁呑めるようになったのは小学校3・4年位じゃ
ないですかね〜。黄粉は砂糖を混ぜてご飯に掛けて食う。ご飯自体好きじゃなかったんで
母親がそうしてくれたんでしょうか?

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/24 17:31:08 ID:Nvmaj4Aj
どピンク色のでんぶ食べてた。
・・・でんぶって何が原料なの?
今に至って知らぬママ。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/24 20:54:25 ID:M+m+7lO6
黄な粉に砂糖を混ぜてご飯に掛けては憶えてる。
それに夏みかんには重曹、ヤケド、切り傷には医者イラズ、またユキノシタ
を煎じたことも。
昔の人は知恵があったね、効果があったかどうかは定かでないが。

でんぶの原料は私もよく知らないのですが、魚であることは間違いないと思います。
ただ、どういう魚かはわかりません。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/24 21:38:48 ID:ZoOQtcc4
「でんぶ」は、鯛やタラなどの白身魚の身を茹でてから布巾に取り、
流水でもみ洗いして脂肪を取り除いた後水気を切り、すり鉢ですった
ものを鍋に入れて調味し、弱火または湯せんにかけてゆっくりと煎り
上げて作られます。


51 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/24 23:14:38 ID:Q/ay1Dsv
給食の脱脂ミルク評判悪いようですが、僕はとても好きでしたね。
食料事情の悪いときにもかかわらず、飲まない子も結構いて、欲しい人どうぞ
ということで、2〜3杯飲めて嬉しかったなあ。
お陰かもしれないけど、背も同期の中では高いほうだった。

今では、ダイエット目的でスキムミルクか、低脂肪牛乳を毎日飲んでます。
家内も子供も やはりダメなようです。 おいしいのに。


52 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/25 14:05:02 ID:5M0q+aVf
>>51
「蓼食う虫も好き好き」なんて言ったら失礼かもしれないが珍しい存在ですね。

「スキムミルク」だの、「ローファット牛乳」だの体裁いい名前付けてますが要は
脱脂粉乳ですよ。あんなもん絶対呑まん。雪印の事件の時も高見の見物でした。

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/25 15:27:01 ID:Zz63fNq8
野球のストで思い出したんですが、30年代って毎年のようにストやってましたね?
東京に出てきてはじめてのストのとき、会社は「あらゆる手段を使って
出勤せよ」だったので、会社の近くの友達のうちに泊めてもらったりしました。
線路を歩いて出勤したことも何度か。

今の若い人たちは、スト=悪と思ってるみたい。
組合が弱くなってストのやり方も忘れたのでしょうか?


54 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/25 21:10:43 ID:4Kv+ZhOf
>>53
うちの親父は鉄道会社(中小)に勤務していましたから、ストは身近な
ことだったはずですが、子供だったせいか正直あまり記憶に残っていません。
当時、経理課の係長だったのかな、とすると組合側ですよね。
ラジオで情報を聞いたり、朝早く、夜遅くとバタバタしてたみたいでしたが、
子供にはあまり関係ないことだったのでしょうね。

それよりも台風の時のほうが切迫した緊張感がありました。
なかなか親父が帰ってこなくてね。当時ボロ長屋だったから、雨戸ごと
家が震えるような中で母と弟と3人でロウソクの灯りだけを頼りにに頑張って
いたことはよく憶えています。

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/26 01:35:46 ID:u8eEogtH
若い頃はスト(労働側)を支持していたが
現在は経営者となり、立場が変わると考え方も変わってしまった
野球のストは支持すよ

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/27 21:16:34 ID:hvRRPWgv
TV大阪30年代ベスト曲やってるけど,三橋美智也いいねえ。。。。
つらいホームに来は来たが 未練心につまずいて。。。
小室にはつくれない!

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/27 23:43:05 ID:wniCDyk3
TV大阪といやあ、昆ちゃんの”ミゼット”最高に笑ったなあ。
世田谷の中学でもおおはやりだった。 「番頭はんと丁稚どん」などもね。

今の子だと、漫才コンビがそれに当たるのかなあ。
笑う年頃に流行るものが、一番面白いんだろうねえ。 いつの時代も。

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/28 09:01:34 ID:kjmlhfVq
>>56
小室を初め最近の音楽には心がないよ!字幕がないと何言っているか分らんし、字幕見ても
下手な横文字の羅列。メロディやリズムも心に響かない。基本的に演歌は嫌いなんだが
三橋美智也は別。あの歌声何十年経っても耳に残っている。

小室や彼に影響された音楽で特に虫唾が走るのは:
wanna、gonna。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/28 15:34:33 ID:Bzx0p551
あの当時、俺のヒーローは植木等だったね。
何がすごいってとにかく明るかった。
どんなに落ち込んでいる時でも植木等の映画、クレージーキャッツの面々を見てると
勇気が湧いてきたもんだ。
どんなに高価な薬よりも効き目があったよ。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/30 04:51:30 ID:t7Kgw5iy
>昭和30年代…1955〜1964年ころは一番よかったね

1946〜1955年くらいのほうがもっと良かったと思う。

♪みぎーのぽっけにゃ ゆめーがあるー 
 ひだりぽっけにゃ ちゅーいんがむー

なんて時代は遠くなりにけり。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/09/30 21:56:20 ID:DP8PGc7x
良かったの高校受験前までだったけど。
子供達だけの社会がそこにはあった。
グループでいろんな悪さしたな・・花火の火薬集めて爆弾遊び・・
工事用のトロッコ引出し、隣町の悪がきグループとの投石合戦・・
ひとりトロッコから転落し、指を潰した事故さえあったけど
不思議と親達は干渉しなかった。
怖いおやじに怒鳴られても、逃げられたし
自由な子供達の遊べる世界が当時はあった。
今の親(自分達も含め)では絶対許されない事だろうが
当時の親はなぜか寛容だったような気がする。
おかげで少年時代はすこしも寂しさなど無かった。
ガキ大将が町から消えたのは何時頃からだろう

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/11 01:41:59 ID:e4YqI/jh
映画「人狼」を観てから昭和30年代のファンになりました。


63 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/12 13:28:21 ID:0FoDoZkQ
なんと言っても、ストリップだったな。
日劇 エレベーターに乗って7階。
ジプシーローズ 良かったナー。


64 :30歳独身:04/10/12 16:03:55 ID:ZByT/aOC
いいですな。まったりしてて、観てて気持ちがいい。

他スレで歪んだ心が洗われるよ。

65 :うへへ:04/10/13 21:01:49 ID:wR7YBYWT
町の中古CD屋でなつかしのテレビ・ラジオ主題歌集のCD2枚組が
ちょっと安く売られていたので思わず買ったよ
1970年代の第一次ナツマンブームでキングレコードから出ていた
2枚組LPがCD化されたものなんだ
LPはゴミノイズや掃除がめんどうだけどCDは聴感上不満なく聞ける
もともとハイファイではないしね
音源はちゃんとオリジナルだったし、2002年頃発売のCDだった
売れ残りだったので3000円が2000円だった
LPはジャケットの迫力を楽しみ、CDは音を気軽に楽しめるから
平行して所持するのが一番だね

66 :きじとら:04/10/21 01:34:54 ID:Bdqxibw7
東京ですが昔は商店街に鯨肉屋と鶏肉屋は普通の肉屋とは別に構えてましたね、
特に鶏肉屋は裏にまわると、、、、。あとうちの周りだけかも知れませんが

の竜田揚げには、醤油とソース両方かけるという奴がいました。ずっと、渋谷
だったので、鯨やの前は毎日のように通っていました、渋谷駅にいくと、傷痍軍人、
赤尾敏、トロリーバス、初乗り40円の日野ルノー4cvタクシー、年とったなァ。
新宿には猪肉の専門店が青梅街道沿いに大きな看板出してましたよね、猪を猟師が,
村田銃かなんかで撃ってるやつ、覚えてる方おられるのでは。父に猪の事を
山鯨と言うんだぞと教えられたのも良い思い出でです。

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/21 10:34:55 ID:zpcH+d2f
こちら(名古屋近郊)では、鯨カツっていってたと思うけど。
今の豚カツぐらいの大きさでね、とってもおいしかった。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/21 11:43:05 ID:9RoS1GDf
白い服装の傷痍軍人いましたね。子供心にも気の毒に思いました。
ボンネットバスもまだ走ってましたよね。
確かバスガイド(男性も)もいたっけ。車内でキップ切っていました。
ここに来るとポツン、ポツンと懐かしい思い出が蘇ってきます。

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/21 12:13:21 ID:lzd/xn7M
よく、道ばたの檻の中に、イノシシが入っていたよ。
赤尾敏やじったらツバかけられた。
今渋谷で見かけるのは、傷痍軍人さんではなくて、
交通事故にあって不自由になった人。
時代が変わったものです。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/21 13:25:11 ID:KWq4aZoN
あのころね〜!?
便所水洗じゃないし、
ポットン便所
アレだけはいやだね

71 :新宿:04/10/21 16:43:09 ID:0vGHSbgm
とってきて、焼いて食わせる 山鯨
というコピーで有名な、その新宿青梅街道際の店は「栃木屋」でしたね
今はビルの名前に残るだけで店は無いようです。

トロリーバスは明治通りを池袋まで走るものでした
現在その路線なぞるように地下鉄の新線が工事中ですよね

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/21 21:59:00 ID:t23yLqal
ボットン便所、今でも山に行けばありますよ。地方の駅にもね。

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/22 00:28:00 ID:6ohmsLJg
ボットン便所は、汲み取り便所とか言ってたと思う。
バキュームカーが来て汲み取っていったみたい。
妹(S・23)なんか、学校の便所の汲み取り当番したとか
言ってました。
また、農家の人が来て、野菜と引き換えに汲み取って
いきましたよ。

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/22 08:02:06 ID:oquydeQX
73>>汲み取り当番ってまじっすか? 70でけすけどそこまでの経験は
ないわな

75 :エンジン:04/10/22 14:34:31 ID:xFM6jYK2
再び。64さんおっしゃるとうりで、おなじ50代以上サイトでも、他の板では
死ねの殺すの、在日だ朝鮮、訳のわからない変な絵、ここには、そんなのこれからもこない事
ホントねがいます。僕は在日でもなんでもないけれど傷痍軍人のところで他の板の様に成るかも知れないので
あえて書かなかったのですが、彼らの殆どは日本政府から補償を受けられない
朝鮮の人だったそうです。あまり書くと話が違う方向にとられても嫌なので、
この辺にします。戦争は嫌だということは、今更ながらおもわされます。
実は僕はまだ40半ばなのですが、妙な事に生まれた時の事から殆ど記憶が残ってるので
この、スレたのしみです。


76 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/22 16:46:01 ID:QMd8rIf6
73>>妹さんと同じ年代で地方ですが汲み取り当番ってのは初耳です。具体的には
どんなことやってたのかしら。
キャベツ畑の畝には汲み取ったものがたっぷり掛けられていてたまにイチジクカンチョウ
なんかが混じっていました。

77 :73:04/10/22 19:58:33 ID:SIpVhRN0
汲み取り当番のことマジレス。妹に確かめてみました。妹は50代。
私は60代ですが、同じ学校でしたが私の時は、当番なかったです。
学校は田畑の真ん中にありました。
当番の具体的なことは、汲み取りは先生がして、入れたものを2人で
運動場の隅に運んでいったそうです。そこに溜める所があったのでしょう。
当番の時は、男の子達にひやかされて、嫌だったと言ってました。 
転びでもしたら、たいへんだ〜!!
昔の先生も子供も、えらかったね。

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/22 20:06:02 ID:8RrM6XTA
モンローなトホホ 2004.10.22
http://live16.2ch.net/test/read.cgi/livetx/1098442555/

実況中


79 :汲み取り:04/10/22 21:41:59 ID:cp8anz1r
汲み取りはバキュームカーではなく、あくまでも柄杓で汲み取ることをいうのです。
2つの桶に入れて天秤のスタイルで運んでいました。
傍目には踊っているような感じでした。
ところが、あれはバランスをとりながら体の負担を軽くするそうで、職人芸
だそうです。(最近、何かの本からわかりました)
運んでいる途中で道に少しこぼれてしまうこともありました。
広場で野球をするとファールとかホームランの球が道にこぼれたところに行き、
その汚い球を砂とか乾いた土をかけてプレーボール。
今、思うと汚い時代でした。
その球で野球をした後、手も洗わずお菓子なんか食っていた。
それで体をこわさなかったというのは凄いとあきれています。
昔のガキは頑丈だったんだ。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/10/23 00:10:34 ID:0vANZKCX
73さま、早速のご確認ありがとうございます。
先生が汲み取り生徒が運ぶってのはナイスですね。
職員会議なんかで「次回の汲み取り当番は誰かな」「はい教頭、私です。」
「ああ○○先生、最近運動場が臭いんで慎重に運ばせるように。」「はい教頭、
了解です。」なんてやってたんでしょうね。

81 :黄昏茶っ太(*´Д`*)〜♪:04/10/25 16:15:38 ID:A0aPFOaH
あ〜、ウチは田舎なんで、運動会のときは運動場の片隅の
「二宮金次郎像」の横っちょに穴掘って、板を二枚渡して、そこをムシロで四方を
囲んだのが「仮設トイレ」だったなぁ。


・・・・アレ終わったら、どうしたんだろ???
そーいえば、毎年数メートルづつ、ずれてたかもなぁ・・・(*´Д`*)



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